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倭国は、百済滅亡で多くの百済難民を受け入れるとともに、唐・新羅との対立を深めた。その影響で急速に国家体制が整備され、天智天皇のときには近江令と呼ばれる法令群が策定され、天武天皇のときは最初の律令法とされる飛鳥浄御原令の制定が命じられるなど、律令国家の建設が急ピッチで進んだとされる。
そして、701年の大宝律令制定により倭国から日本へと国号を変え、新国家の建設はひとまず完了した。以上のように、白村江の敗戦は、倭国内部の危機感を醸成し、日本という新しい国家の建設を結果としてもたらしたと考えられている。
なお、百済王の一族、豊璋王の弟・善光(または禅広)は日経225
から百済王(くだらのこにきし)という姓氏が与えられ、朝廷に仕えることとなった。その後、陸奥において金鉱を発見し、奈良大仏の建立に貢献した功により、百済王敬福が従三位を授けられている。
古田武彦らの九州王朝説の主張によれば、白村江で戦ったのは畿内ヤマト王権(日本)軍ではなく大宰府に都した九州王朝(倭)軍であるとする。しかし、日本古代史の学界からは史料批判などの歴史学の基本的な手続きを踏んでいないとして「学説として批判・検証を受ける段階に無い」と見做され黙殺されている。査読のある学術雑誌において、九州王朝を肯定的に取り上げた学術論文は皆無であり、一般に九州王朝説及び関連する主張は科学的な学説とはみなされていない。
タラス河畔の戦い(タラスかはんのたたかい、751年7月-8月)は、中央アジアのタラス地方(現在のキルギス領)で唐とアッバース朝の間で行われた戦闘。唐とアッバース朝の中央アジアの覇権を巡る天下分け目の戦い、製紙法が西方に伝播した戦いとして有名。
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に駐屯していた唐の将軍高仙芝が西のソグディアナ(西トルキスタン)に圧力をかけたため、シャーシュ(現在のタシュケント)の王はシル川以西を支配するイスラム勢力に支援を要請。これに応じて747年にウマイヤ朝勢力をメルヴから追ってアッバース朝のホラーサーン総督となっていたアブー・ムスリムは部下のズィヤード・イブン=サーリフを派遣し、ズィヤードの率いるアッバース朝軍と高仙芝率いる唐軍は、天山山脈西北麓のタラス河畔で衝突した。
戦いの最中に唐軍に加わっていた天山北麓に遊牧する遊牧民カルルクがアッバース朝軍に寝返ったために唐軍は壊滅し、高仙芝は逃げ延びたものの、多くの兵士が捕虜となった。この戦い以降、中央アジアにイスラム勢力の安定支配が確立し、ソグド人やテュルク系諸民族の間にイスラム教が広まっていった。中国の側では、まもなく起こった安史の乱の影響もあって唐の中央アジア支配は後退していった。
中国人の捕虜の中に製紙職人がいたとされ、サマルカンドに製紙工場が開かれてイスラム世界に製紙法が伝わった。
安曇 比羅夫(あずみ の ひらふ、生年不詳- ?663年(天智2年))は、7世紀中頃の外交官・武将。氏は安曇氏。姓は山背連。名は比良夫とも書く。
舒明天皇在任中に百済に使者として派遣されていたが、641年舒明天皇が亡くなったのに際し、翌642年百済の弔使をともなって帰国し、その接待役を務めている。またこのとき百済の王子翹岐(ぎょうき)を自分の家に迎えている。661年高句麗が唐の攻撃を受けると百済の救援するための軍の将軍となり、百済に渡っている。翌662年日本へ渡来した百済の王子豊璋を王位を継がせようと水軍170隻を率いて王子とともに百済に渡った。大錦中に任じられた。
663年8月27-28日の白村江の戦いで戦死したとされる。長野県安曇野市の投資信託
に安曇連比羅夫命(あづみのむらじひらふのみこと)として祀られる。同神社のお船祭りは毎年9月27日に行われ安曇比羅夫の命日であるとされる。
阿倍 比羅夫(あべ の ひらふ、生没年不詳)は7世紀中期(飛鳥時代)の日本の将軍。越国守。阿倍氏一族の内、引田臣と呼ばれる集団を率いていた。
『日本書紀』によれば、658年水軍180隻を率いて蝦夷を討ち、さらに「粛慎」を平らげた。粛慎は本来満州東部に住むツングース系民族を指すが、『日本書紀』がどのような意味でこの語を使用しているのか不明である。外国為替証拠金取引
とも取れ、沿海州にまで渡ったとも推測される。翌年には再び蝦夷を討って、後方羊蹄(しりべし)に至り、郡領を任命して帰った。後方羊蹄は、北海道の羊蹄山のこととも津軽ともいう。
662年、中大兄皇子(後の天智天皇)の命により百済救援の水軍の将として半島に向かったが、663年、新羅と唐の連合軍に白村江の戦いで大敗した。この敗北により百済再興の夢は潰えた。しかし敗戦の責任を問われることはなく、後に北九州の大宰府の長官に任命された。
ちなみに遣唐使で留学生として派遣された事で有名な阿倍仲麻呂の父である阿倍船守は、比羅夫の息子とも弟ともいわれており、事実なら比羅夫と仲麻呂は祖父と孫(あるいは伯父と甥)の関係ということになる。
鬼室 集斯(きしつ しゅうし、生年不明 - 持統天皇2年11月8日?=688年12月5日?)は、7世紀の百済の貴族で、白村江の戦いの後に日本へ亡命した。百済復興運動で活躍した鬼室福信の縁者で、孫に鬼室美成がいる[要出典]。小錦下、学職頭。
『日本書紀』によれば、鬼室集斯は天智天皇4年(665年)2月に小錦下の位を与えられた。佐平福信の功によって、とあるため、百済復興に努めて2年前に死んだ鬼室福信の近親者と思われるが、具体的な関係は不明である。集斯の百済での位は達率であった。資産運用
はこれに続けて百済の男女400余人が近江国神前郡(後の神崎郡)に住まわされたと記すので、集斯も同じと推定できる。3月に神前郡の百済人に田が与えられた。
天智天皇8年(669年)に、佐平余自信と佐平鬼室集斯ら男女700余人が近江国蒲生郡に遷された。
天智天皇10年1月(671年)に、鬼室集斯は小錦下の冠位を与えられた。どういうわけか、665年に与えられた位と同じである。このとき集斯は学職頭であった。学識頭は律令制における大学頭の前身であると考えられている。久木幸男は集斯が蒲生郡に移されてから、この時の叙任までの約1年余りのうちに日本の大学寮の原型が成立して、集斯がその長になったとする説を唱えている。
江戸時代に、近江国蒲生郡小野村(現在の滋賀県日野町小野)の西宮という神社で、石の八角柱が見つかった。「鬼室集斯墓」と記した面が正面で、その右の面に「朱鳥三年戊子十一月八日?」、左には「庶孫美成造」と書かれていた。朱鳥3年は、持統天皇2年(688年)にあたるが、ただしこの墓石は11世紀以降のものである[1]。後にこの神社は鬼室神社と名を改めて現在もある。
なお、1994年には、同じ日野町の大字寺尻にある野田道遺跡(7世紀後半)から、オンドルとよく似た石組み煙道の遺構を伴う竪穴住居跡が出土しており、『日本書紀』の記述を裏付けるものと見られている。
鬼室 福信(きしつ ふくしん、生没年不詳)は、百済の王族・将軍。義慈王の父である第30代武王(余璋)の従子。官位は恩率(三品官)、のち佐平(一品官)。没した2か月後白村江の戦いで倭国と百済の連合軍が大敗した。
義慈王時代の660年、唐と新羅の連合軍によって百済が滅亡した後も、旧臣らを糾合して抵抗運動を続け、百済の故都である泗?城(現・忠清南道扶余郡)の奪還を試みた。この頃、義慈王の王子であった余豊璋は、倭国との同盟の人質として倭国に滞留していたが、鬼室福信ら遺臣は、百済復興の旗印として擁するため豊璋の帰国と、倭国の軍事支援を求める。斉明天皇・中大兄皇子は快くこれを了承し、積極的に百済復興を支援することとし、翌年正月には斉明天皇自ら、筑紫へ遠征する運びとなった。
『百済本紀』、『旧唐書百済伝』では、豊璋は翌662年5月に入国した。このとき福信は王を迎えに出て、国政をみな委ねた。倭国はこの後も福信あてに軍需物資を送り、福信も捕虜の唐人続守言らを倭国に送った。7月、扶余豊(扶余豊璋)は福信が自分を殺そうとしていることを察知し、逆に、これを殺した(出典)。
『日本書紀』では、663年6月に、百済王豊璋は福信の謀反を疑って捕らえ、その掌を穿って革紐で縛った。それから諸臣に対して福信を斬るべきかと問うた。達率(二品官)の徳執得は「これは悪逆人であるから放しおくわけにはいかない」と答えた。福信は執得に唾して罵ったが、王は福信を斬らせ、その首を塩漬けにした。福信の近親者と思われる鬼室集斯は天智4年2月(665年)(即位元年起算よると天智10年正月)に天智天皇から小錦下の位階を与えられ、天智8年(669年)近江国蒲生郡に送られ、そこで没したという。
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